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と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。
「いやネ、誰か赤山のことに精くわしい者はいないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」
「えゝ、さうですとも、あれは傑えら物ものですよ。あの師団長は第一答礼の仕方からしてちがひまさあ。かういふ風にね、ゆつくりかう腕を上げてね(と、彼は身振りをして見せる)。めつたに口を利きませんでしたよ。口を利かなくても答礼の仕方がものを云ふんですよ。やあ御苦労だつた、なんて中隊長みたいな軽いことは云ひませんよ。睨まれやうものなら恐いの何んのつて、いやほんとに身体がぶるつと顫ふるへましたよ」
そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。
この分では永くなりさうだと思つて、房一が腰を浮かし気味にすると、
が、徳次は話したいことが一杯あつた。彼には女の子ばかりが四人もあつた。一人いる男の子はまだ赤ん坊だつた。それらは全くうようよと、徳次の知らない間に生れて来たやうな気がした。家の中を葡はひずりまはり、土間にころげ落ち彼の足にとりつき、彼を「お父ちやん」と呼んだり、「お父う」と罵つたりする。彼は子供を可愛がつているのか煩うるさがつているのか、自分でも判らなかつた。彼にはあらゆることが矍鑠くわくしやくとした老船頭だつた父親がいつの間にか耄碌もうろくしてよろよろ歩くやうになつたこと、一番上の姉娘が或る時ひどい熱を出してから頭が変になつていまだに「八文」であること、何の気なしに押した無尽の請判で百円といふ大金を支払はされるのだと聞いて小半年の間世話人のところに文句を捻ねぢこんで手こずらせたこと、それらすべてのことが徳次には一体どういふわけで起きたのかさつぱり判らなかつた。それは漠然とした年月だつた。たゞ何かしらこみ入つて、一杯つまつて、過ぎてしまへば片つぱしから一向に手答へのないものになる年月だつた。それをどんな風に話したらいゝものだらう。
喜作はふりかへつた。そこへ房一も登りついた。三人は瞬間顔を見合せた。そこに、房一は自分よりは二つ三つ若い、だが禅坊主のやうな頭骨をした精悍な表情の神原喜作を見た。
根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。
房一は目を上げて何か訊きたさうにした。それを押へるやうに、
「やつぱり徳さんが多いね」
「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
房一はさつき、まだ午飯ひるめしが終り切らないうちに、あのトラホームの婆さんにやつて来られたのである。ちやうどその時、盛子は房一によそつた飯茶碗を渡しながら、何気なく、ふいに、「早いのね、もう一年あまりたつてしまつたわね」と呟いたのであつた。すると房一は、自分では度忘どわすれしていたことを云はれでもしたやうにびつくりし、打たれ、感慨深げに、「ふうむ、さうだ!」と答へ、それでも足りないで、どういふわけか受とつた飯茶碗を手の中で廻しながらそれに見入つて、もう一度「ふうむ」と呟いた。若しこの時、トラホームによつて中断されなかつたら、この「ふうむ」はもつと形を変へて、二人の間ではもつと生き生きした会話がつづいたらう。だが、トラホームがその感慨の深まりと、成長を中断した。房一はそゝくさと飯をかきこんで、診察室に出て来た。この婆さんのトラホームは難症であつた。だが、病気ばかりでなく、婆さんそのものも甚だ難物だつた。婆さんはトラホームといふ病名を知らなかつたばかりでなく、云つて聞かせても、まるで悪名を蒙かうむつたかのやうに、頑固に黙りこんでいたから、治療をうけに通はせるやうに説き伏せるのに骨を折つた。だから、房一はトラホームばかりでなく、婆さんの頑固さにも対抗して、念入りに処置しなければならなかつた。さもないと、次の日から婆さんは通はなくなる恐れがあつたからである。
と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。